駄話日記

おもしろきこともなき世をおもしろく すみなしものは心なりけり

言語障壁

を感じた次第。

 

今ブラジル人が二人住んでいる。彼らは共有の食卓でポルトガル語で会話を永遠と続ける。

 

もちろん何て言っているかはわからない。ポルトガル語を一切知らないんだから当たり前。僕は自然と口数はなくなる。

 

女性ブラジル人が、それをみて

「体調悪いの?」

こいつ頭がマジで悪いんじゃないかと思った。

 

「ごめん。ポルトガル語が一切わからないから話さなかった。もし話せるなら英語だと助かる」と僕。

 

彼女が続けざまに放ったのが

「プライベートな話題だからポルトガル語で話した。ポルトガル語わからないから理解できないのはしょうがないよ。」

 

いや、それおかしくねぇか?

もちろんポルトガル語の知識はない。でも僕はポルトガル語を学びにカナダに来ているわけではない。

 

言語がわからない人がいるから、聞かれたくないから、理解されたくないから、安心して母国語で話すって…気遣いというものが一切ない。そんなに母国語で秘密なコミュニケーションとりたいんだったら自室でやれ。

 

機嫌が悪くなった僕にやたらと声をかけてきたけど、返事をする気にもならない。「日本人は空気を読みすぎる」とネガティブなイメージで言われるけれど、その個性は社会性を保つ上では必須なキャラクターな気がしてきた。

 

小学生の時に読んだ『ルドルフとイッパイアッテナ』に同じようなシーンがあった。

ルドルフは猫にもかかわらずイッパアッテナから文字を教わり読めるようになる。ある日友達のブッチー(名前不明瞭)が文字を教えて欲しいと言ったところ、ルドルフは読めないことをいいことに文字でブッチーをバカにする。

 

またある動画では、アメリカの少年少女が日本語の勉強をしていた。流暢になったら「秘密の会話」や「悪態を理解されずに言える」と話していた。

その考え方は本当に残念でしかない。そんな事が目的なら、日本語習うなんてこちらから願い下げだ。

 

別に今回はバカにされたわけでもないし、虐められたわけでもない。ただ、共通理解のない言語を使うという事はそのような危険性と疎外感を生むと思った。

例えば、日本語がわからないからと言って、外国人の前で日本語で悪口を言う。それは本当に下劣。

 

話が極端になったが、「わからないからいいや」と思って気軽に言葉を使うと痛い目にある事もある。ましてわからないから、言語で非難するなんて行為はもってのほかだと思う。

 

ニューヨークへ言った際に、しつこい物売りを無視していたらやたらと悪口を言われた。以前だったらなんか怒ってんな、だけで終わっただろうが、残念なことに、全て何て言ったかわかる。それだけでニューヨークの印象はマイナスからスタート。もちろん逆もしかり。

 

言語は便利。コミュニケーションの一番の武器に違いはない。英語を勉強するようになってき、外国の人と話すようになって本当に便利だ。

 

一方で対外国人に使う際には傷つける事もある。特に、第三者がその場にいるときは共通の言語でコミュニケーションをとる事がマナーだと思う。この事は自責の念も含めて覚えておきたい。