誕生日プレゼント
を買いました。
プレゼント小話
えぇ、自分への誕生日プレゼントですが、何か?
すでに誕生日を迎え、一か月が経過しました。特に28歳と29歳では変化がありません。しいて言えば、体重が2㎏弱落ちたことでしょうか。お腹の摘まめる肉がやや減りました。
今はとある目的のために節制が必要です。それなので、今年の誕生日にはあまり大きな買い物をすることを避けました。毎年、誕生日を言い訳に、何かしらの買い物をするのですが…そう考えると、誕生日っていいものですね。
誕生日当日は特に何もせずに、チキンカレーを作って食べました。
我が家では、誕生日はセルフプロデュースしないと無いものとされます。
父も、自分の誕生日にケーキを焼きます。父は、家族の誕生日にはケーキを焼いてくれます。たまにはいい仕事をします。
内政不干渉の法則が前提の家族体系では、このようなことがしばしば起こります。
閑話休題。
欲しい物もそこまでないし(本当はたくさんあります。お金がないので、買いたいという願望を持てないだけです。)別にいいかなと思っていました。山と道のフーディーも買ったし、電源タップも買ったし、ちょこちょこ買い物をしてストレスを発散させていますから。
ただ、何となく記念になるものが欲しいのが正直なところです。
買ったものを後から見返して、
「3年前に買ったXXXだなぁ」なんて思い返す行為も悪くないからです。
誕生日に買って依然気に入って使用している物は4年ほど前に購入したMM6のコインケースでしょうか。
MM6は本来ウィメンズラインなのですが、小物であればそんなことは関係ありません。
丸いシルエットがお気に入りで、今でも使っています。MM6でもマルジェラはマルジェラです。所有欲を満たしてくれるところもマルジェラ所以たるところでしょう。
ちなみに、パスケースは本家マルジェラです。これは頂き物で大変お気に入りです。
デニムを履くことが多いので、ロゴの糸がインディゴに染まってきました。
29歳の自分へ
で、今年の誕生日ですが本を買いました。
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』です。
すでに文庫本で持っています。5年ほど前に購入し、一年に一度は読み返します。読み返さないと村上春樹の本の内容は忘れます。内容は忘れますけど、好きな作家です。
仲の良い人にはたまに言うのですが、僕がいつか死んだら、夏目漱石『こころ』、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』『羊をめぐる冒険』を棺桶に詰めてほしいと思っています。そのくらい好きです。
あ、棺桶にもし余裕があったら、中島らも『ガラタの豚』も入れておいてください。
なぜ好きなのか、について
舞台が日常の中の非日常であり、すべてが刹那的な体験。そんな内容の繰り返しが、彼の小説の中で好きなところです。また、彼の作品の文体とリズムが僕の読むリズムと波長が良いのだと思います。
この文章の波長が合う、合わないは、好きな作家を見つける上で非常に大切なことです。波長が合わない作家は、たとえ良い本であっても、何度読んでも面白みを感じることができません。読んでいてつらいです。
音楽でいうところの同じジャンルでもBPMが合わないという感じでしょうか。
さすがに、5年も毎年読んでいたらさすがに少しは内容を覚えます。そこまで脳は退化していません。そこで、今回は英文で読むことにしました。
なぜ英文で。速読への懸念とともに
結構厚いです。購入した直後から、「読み切れるか」どうかの不安しかありません。ただ、一年間かけてゆっくり紐解いていこうと思います。時間をかけながら一冊読むのも、きっと悪い行為ではありません。そもそも英語が達者ではありませんのでそこが一番の課題です。
速読、多読なんて読書が流行っている世の中ですが、速読、多読がすべてではありません。別に内容だけ把握するのであれば、オーディオブックでも聞いたほうがよっぽど楽です。
「読む」という行為は、作者の感性を受けるいわば「受動」の行為でありながら、自分で読み進める「能動」の行為でもあります。
その「受動」と「能動」の行為を楽しむことが読書の本質だと僕は思っています。
速読、多読はあくまで「能動」行為の究極系。その行為に、作者の感性を受けるいわば「受動」の要素は一切含みません。自分だけでどんどん進める、言わば、マスターベーションですね。
本屋に速読本が積まれているのを見ると、マスターベーションのハウツー本が積んであるなぁ、と僕は勝手に思っています。別に悪い行為ではないですけどね。
確かに、ハウツー本や学習書であれば能動だけのほうが効率がいいでしょう。なぜなら、内容が不変的なものだからです。数学の本を読みながら、「いや、公式は合っているけれど、この数学者の表現が気にくわない」という否定の感情や、「この公式を見つけたとき、メンデルはどんな気分になったのだろう」という心理的描写を読み解いていては、先に進みません。
そもそも、ハウツー本や学習書は、不変的な内容であるからこそ疑問を持たない(持たせない)、感情を挟む余地がない、から読速読が成り立つのだろうと思います。
ただ、小説は感情の挟み込む余地が満載です。いろいろと思うところありながら、「丁寧に読み進め(能動)」面白さを「享受(受動)」するところが醍醐味です。そのバランスを大切にすることが、小説を読むことの素晴らしさだと思います。
試験問題に出る「作者の気持ちを答えろ」なんて問題は本当に愚の骨頂だと思います。好きなように感受して何が悪いのでしょうか。
こんなことを常々思っている私は、もちろんセンター試験の現代文の小説はひどい点数でした。
さて、ネジを巻こう
僕は『ねじまき鳥クロニクル』を何度も読みました。何度も読むうちに、作品の中の本来の面白さを感じる楽しさが欠けたような気がしています。日本語で読んでいては、一定のペースで淡々と読んでまた読了になる可能性があります。「淡々」と読むだけあって、心に淡くしか残らないのです。
何度も書いていますが、僕は『ねじまき鳥クロニクル』が好きです。何が好きなのかはよくわかりません。なので、改めてそれを探してみようと思います。英語なので時間はかかります。その分ゆっくりと丁寧に読むことができます。
読み切った後に、何が好きなのかを発見出来たらそれはめでたしめでたし。もし、見つからなくても「理由がない好き」はそれもそれで素敵なことだと思いましょう。『ねじまき鳥クロニクル』を読むことが、僕の世界のネジを巻く行為だから、読むこと自体が大切なのかもしれません。
それではネジを巻こう。
ぎぃ、ぎぃ。
ではでは。