駄話日記

おもしろきこともなき世をおもしろく すみなしものは心なりけり

異文化の定着

異文化の定着はどのようにしてなされるのか。

 

今日、商店街をぶらぶらしていると、ハロウィンの仮装をしている子供たちの集団に出会った。どうも、今日は商店街のハロウィンパーティらしい。色々なお店が、子供たちにお菓子をあげていた。

 

思えば、ちょうど一年前、僕は新宿歌舞伎町にいた。歌舞伎町の入り口のドン・キホーテは異常な盛り上がりを見せており、何かと思えばちょうどハロウィンだったのだ。飲み屋に入ると、案の定、仮装を楽しんでいる男女が、酒を飲んでいた。

 

ハロウィンが日本で市民権を得たのはいつからだろうか。以前は、10月31日はただの10月31日だった。僕が子供の頃は、仮装なんてしているのはごくわずかだし、「ハロウィンだから」という理由で遊ぶことも少なかったと思う。ここ数年で、ハロウィンの経済効果は異常に高まった。去年は、新宿のラブなホテルもハロウィンを打ち出しており、行列が出来ていた。

 

日本人は、異文化を取り入れることが巧みだと思う。先のハロウィンだって、本国だとどんな意味を持っているのか分からずに、楽しんでいるような気がする。(僕も当然ながらハロウィンがどんな意味合いを持っているのか分からない...アメリカのお盆?)

 

理由の一つは宗教観の希薄さだろう。日本人は、冠婚葬祭(主に葬祭)の時にしか、宗教と付き合わない人が多い。日々、念仏を唱えたり、神棚を拝んだりする人の方がまれではないだろうか。「あぁ、神様!」なんて言うことがあるが、キリスト教徒ならキリストを指すが、日本人では、一体何を「神」として崇めているのだろうか。キリストは、ビジュアルが分かりやすい。神が長くて、頬がこけてて、十字架。しかし、今の日本の神となると、崇め、信仰する際に具体的なビジュアルが浮かんでこない。阿修羅像でもないし、東大寺の大仏でもない。具体的に崇める物がない分、宗教との関わりは薄くなるのではないだろうか。

 

初詣に行ったとしよう。今年のご利益を誰に祈る。いざ、という時、目の前にあるのは賽銭箱と鈴だけだ。空虚の中に祈っているようにも見えなくもない。(神の使いが神主に当たるのだろうけど、別に出てくるわけでもない)

 

と、まぁ宗教に対してハードルが無い分、様々な宗教行事に参加できるし、それを楽しむことに抵抗が無いわけだ。だから、異文化の受け入れが容易なのだろう。江戸時代、日本は鎖国をしている時期があった。当時はキリシタン撲滅のために、踏み絵などを行い異文化を排除してきた。しかし、それは、宗教的観念ももちろんあるだろうが、外的への畏怖の方が大きかったからだと思う。その後、日本は半強制的に鎖国を解かれるが、その後の日本の異文化への適応と応用は目覚ましいものだった。

 

そう、異文化を取り入れることの上手さのもう一つの理由が「適応と応用」だ。諺に「郷に入れば郷に従え」とあるが、異なることに出会ったとき、特異なものに遭遇したとき、畏怖することもあるだろうが、何となく適応する。それは概ね「楽しいこと」にたいしてのみ発揮されることが多い。ハロウィンだってそうだ、気がついたら、変なコスプレイベントに様変わりしている。外国人を見ていると、日本のハロウィンに対して、あまり疑問せず、楽しんでいたりする。誰一人お菓子なんてもらっていないのに...

 

文化の輸入は簡単にはなされない。輸入され、解釈され、受け入れられ成立する。そのプロセスが文化を継承し、発展させいくわけだ。日本の文化を輸入する国はどのくらいあるのだろうか。島国として、独特の言語を使い、特殊な進化を遂げている国。他国との共生を善くも悪くも避けて来れた国。しかし、日本は色々な文化を取り入れてきた。様々文化のミックスが日本の文化になりつつある。伝統文化はどこにいっただろう。僕は、今の「伝統文化」を見たところで、日本的な要素はあまり感じないし、それこそ異文化に感じる時がある。それは、本来の日本文化と今の日本人が重なる部分が少ないからだろう。

 

2020年に東京でオリンピックが開催される。様々な人種が日本にくるわけだ。様々な文化が混ざり合う。異文化の定着はしばらくお休みにして、改めて「日本文化」とは何かを足元を見直す必要があると思う。